小竹信節

こたけ・のぶたか
KOTAKE, Nobutaka

舞台美術、アートディレクション

Theater Art, Art Direction

教授

Professor

1997年4月着任
1950年東京都生まれ
東京造形大学中退

研究テーマ:

脱領域を含め、特に機械、からくりなどを駆使した装置による舞台美術(衣装を含む)表現の可能性について。

'75年から'83年まで演劇実験室「天井桟敷」の美術監督として「奴婢訓」「ノック」「阿呆船」「百年の孤独」など後期寺山修司全作品の舞台美術及び映画美術を担当。その後、ロベール・ルパージュ、蜷川幸雄、白井晃らの演劇からマイケル・ナイマンのオペラ、松田聖子のコンサート・ツアーまで数多くの舞台美術を手掛け、'91年度青山ワコール・スパイラル・ホールの芸術監督に就任し、「新機械劇場」「ムュンヒハウゼン男爵の大冒険」など装置のみによる演劇を試みる。
造形作家として、フランス・パリ・ポンピドー・センター、アヴィニョン・フェスティバルに於けるジャン・ティンゲリーらが参加の「センチメンタル・マシーンズ展 Les Machines Sentimentales」、フランス・ランス市などでの「オートマタとロボット展 Automates et Robot」など自動機械をテーマとした海外企画展に多数招待出品。
平成7年度文化庁芸術家在外派遣研修員として英国ロイヤル・シェイクスピア劇団に於いて1年間研修のためロンドン在住。
ニューヨークADC賞、TV・CMでのACC賞、DD年賞優秀賞、読売演劇大賞優秀スタッフ賞など受賞。

http://www.musabi.ac.jp/kuude/
kotake.html
「奴婢訓」寺山修司作・演出

「奴婢訓」寺山修司作・演出

パリ・シャイヨ宮劇場 1982年

メディアとしての劇場

舞台を創造するとき、「人は、なぜ劇場に行くのだろうか?」という根源的な問い掛けに答えてゆく必要があります。例外的な舞台を除いて、観客にとってわかりきったことを確認しに行く場では決してないはずです。それによって「世界の見方が変わる自分」を発見するからなのでしょう。
さまざまなメディアがそうであるように、人間が身体を使い外の世界(多くは技術化された自然)に向かって感情や物事などを発信したり捉えたりすることと同様に、都市をある種の集合的な身体としての視点から考えるとすれば、さまざまな人間の感覚の中で、ある特定の能力を拡張する身ぶりや表現の触媒となる劇場は、都市そのものが身にまとうインターフェイスそのものとみなすことができるでしょう。同時に、都市の「場の変容」を伴う劇場という存在は、私たちの「文明的表皮」として呼吸をし、身体を異質な次元にジャンプさせる補助器官そのものなのでしょう。つまり劇場という存在は、生身としての現在なのです。さらに、そのことで観客は、劇場に足を踏み入れた途端わくわくするのです。
劇場の多くは、様式としてもっとも便利な発明であるプロセニアム(額縁形式)の形態をとっていますが、世界中の劇場と同様に日本の劇場にはさまざまな異なる形態があります。舞台美術表現は、それぞれの空間に応じた対応がその都度必要になるのです。他の美術やあらゆる表現の領域がそうであるように、劇場形態や表現方法には伝統があっても正統なものなど何もありません。舞台表現する人たちがこれから創り出し、担ってゆく世界なのです。
ここでひとつの例をあげてみます。毎年武蔵野美術大学で行われる入学式や卒業式などの式典は、アリーナと呼ばれる体育館で行われます。何もない空間である体育館に一から設計・設営するのですから表現の自由度は極めて高いはずです。そこで最も重要なのは、式がいったい誰のために行われるのかという目的の問題です。式典=講堂形式という概念は、その検証を怠りながら、多くは講堂で行われてるという慣習に依存しているからに他ありません。この様式のすべてを否定する訳ではありませんが、武蔵野美術大学は、幸運なことにそのための講堂がないのです。そこで学生一人一人が主役であるべき式典と空間との関係を考えてみましょう。ひとつは収容能力と、正面が定まるという利点はありますが講堂のひな壇と最後列に並んだ学生との長い距離感に対して(コンサートなどでも後ろの席は、安く売られるのと同様に)の構造的な問題があります。千人程の学生の誰もがより身近に教員から入学、卒業を祝ってもらい、迎え・見送ることの出来る舞台を、アリーナを横切る「橋」として表現してみたのです。文字どおり掛け橋です。ここでは従来の式典の姿がどうあろうとも、何を飾るのかというささやかな問題ではなく、空間をいかに目的に見合った姿に変貌させ、迎える者と迎えられる者、送る者と送られる者、両者の関係を舞台構造として表現する必要性を感じたのです。
演劇など一般的な舞台でも考え方は同じです。人間とモノと言葉、時間との関係に生じる意味を模索し、翻訳するのが舞台美術家の役割です。翻訳の作業は、幾度となく繰り返されます。単に文脈を説明するだけの挿し絵のような世界に留まるのなら、リアリティーの質を求めない限り、それは言葉の想像力、文学の力、絵に留まることで見ることの出来る夢には及ばないでしょう。立体世界が文字から抜け出て姿を現わすこと自体は、とてもダイナミックな行為ですが、姿を現わすということは、その世界が空間を支配し、より世界が具現化する訳ですからさらなる想像力を必要とします。表現の手法は、絵画がそうであるように多種多様ですが、そこに何を読み取ろうとするのかが重要です。
劇場もまた、名付けられた時点では単に建造物に過ぎません。芝居を打ち観客を迎えるから劇場になるのです。体育館で式を行えば、そこは式典会場になるのと同じです。舞台の様式がどうあれ、ここでは舞台という考え方が重要なのです。それは自分が住むアパートや大学の教室、そして街全体が明日には劇場になることだってあり得ることなのです。何が満たされ、満たされないのか、といった構成上のさまざまな要素の差、そこに浮きあげるメタファーの見え方の差が存在するだけで、他の領域でのデザインにおける表現であっても同様です。そこには私たちの日常原則から少しだけはみ出そうとする想像力の問題があるだけです。
1975年寺山修司は、杉並区の一帯の街そのものを劇場とした市街劇を上演しました。3ヶ月程前から劇団員がその街に住み着き、地域にとけ込むことから 芝居を準備し、街を劇場化するためかなりの時間を費やしましたが、それだけの時間を掛けないと強力な日常の編集は出来ないのです。日常には約束された時間軸、そこに住む住人の集団の幻想があります。しかし劇場は決して異物としての存在ではあり得ません。むしろ日常原則では納まりきれない人と人、人とモノと言葉などの関係から生まれた感情の隙間が劇を見い出し、その隙間に生じる日常との行き場のない違和感(ときには発見や感動を伴い)などによって人は、さらに表現の場を求め、劇場やギャラリーに足を向かわせてしまうのかも知れません。そして、日常と非日常との境界はとても曖昧です。壁ひとつ隔てた隣家の夫婦喧嘩は、他人にとっては劇場空間と変わらないかも知れません。仮に劇場と名付けられた舞台上での事故で役者がけがをし血を流したとしても、観客には迫真の演技としか見えないかも知れないのです。常に劇場という記号が虚構世界への扉であるとは限りません。
劇場もまた、重なりあう私たちの社会のメディアのひとつとして、「現在とは何か?」という想像力のレイアー(層)に過ぎないのです。形態がどうあれ「舞台という想像力」によって人が夢を見、表現することの大切さを知り、それによって人間の感情の在り処を探り、人間が人間であることの可能性の幅を押し拡げることこそが重要なのです。

「新機械劇場」小竹信節演出

「新機械劇場」小竹信節演出

ワコール・スパイラル・ホール 1991年
「こわれた玩具」白井晃演出

「こわれた玩具」白井晃演出

世田谷パブリック・シアター 1997年

「クラブ・オブ・アリス」白井晃演出

「クラブ・オブ・アリス」白井晃演出

青山円形劇場 2002年



テイクアウトする舞台表現の現在

シニックデザインコースの外部授業活動―3・4学年
シニックデザインは、さまざまな発想の起点となるべく舞台という概念を通し、もはや劇場という領域さえもあいまいになった現在にあって、空間演出とは何かを探っていくものであると考えます。私たちは、なぜ劇場で表現をし劇場に足を運ぶのかという根源的な問いに答えていかなくてはならないのです。劇場もまた私たちの社会のメディアとしての、ひとつの想像力のレイヤー(層)に過ぎないのです。過去を踏まえながら「私達の現在・未来とは何か」を探ることは空間表現の可能性を模索することでもあります。学内におけるさまざまな空間表現のシミュレーションは、学外で現実に起きているさまざまな公演と随時リンクすることにより、実際の舞台空間がどのように発想され、建ち上がり観客を迎えるのかを、ひとりひとりの眼を通した体験によって更なるリアリティーを持ち得るのです。舞台空間には装置、衣装、照明、音響、付帯設備、劇場管理などテクニカルな側面の他に、そこには絶えず生身の現在があり、それぞれの個性が想像力を持ち寄って新たな世界を創造します。そのプロセスを通し空間表現における等身大の現在を見届けるのです。


「身毒丸」蜷川幸雄演出 シアターコクーン 美術 小竹信節 

「身毒丸」蜷川幸雄演出 シアターコクーン 美術 小竹信節 

2002年 舞台装置と4年ゼミの学生たち
「身毒丸」蜷川幸雄演出 シアターコクーン 美術 小竹信節 



平成11年度武蔵野美術大学卒業式・式典

平成11年度武蔵野美術大学卒業式・式典

(アートディレクション 小竹信節)
平成13年度武蔵野美術大学入学式・式典

平成13年度武蔵野美術大学入学式・式典

(アートディレクション 小竹信節)
ページの最初へ